「延禧攻略」邦題「瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃」。
最後までご覧になった方は袁春望と乾隆帝が兄弟か否か不明確な状況であったと思いますが、乾隆帝には出生場所について、諸説あるようです。
今回参考にしたのはこの本↓
ヌルハチが表紙。
清朝皇帝や皇妃などの謎を正史・野史含めてまとめられている、ちょっと週刊誌的な感じで面白く読める「大清王朝未解之謎 大全集」(中国華僑出版社)を参考にまとめてみます。
乾隆帝はどこで生まれたのか?
出生地に「雍和宮」と「避暑山荘」、
また乾隆帝漢人説の噂のもととなった「浙江省海寧」があります。
「浙江省海寧」については別の記事にいずれまとめます。
雍和宮説
乾隆帝は自ら書いた詩文には常々「自分は雍和宮で生まれた」と書いています。
例えば乾隆44年(1779年)の《新生雍和宫瞻礼》の一節
斋阁东厢胥敦路,忆亲念我出生
これによると、雍和宮の东厢房で生まれたと書かれている。
これ以外にも雍和宮で生まれたことを表す様々な詩文を書き残していることから、
乾隆帝は一貫して「雍和宮で生まれた」と認識していたことがわかります。
即位後は父・雍正帝の肖像画を置き、毎日ラマ教の僧を派遣し読経させています。
雍和宮、現在はラマ教寺院で中に入ったことはないですが、近くの「京兆尹」に行った時に撮った写真がこれ↓
夜撮影モードなので暗いのに明るい変な写真になっています…。
避暑山荘説
避暑山荘は熱河(現在の承徳)にある皇帝の避暑地です。
避暑山荘は范冰冰(ファン・ビンビン)主演のフランス映画「背徳と貴婦人」の撮影地です。
[getpost id="1932" title="映画「背徳と貴婦人」" target="_blank"]
乾隆帝の生まれた場所は、避暑山荘生まれという設定もありますが、なぜか。
これについては嘉慶帝〜道光帝の間の経緯が大変面白いのでご紹介します。
管世铭の詩注から
乾隆末期の官僚、管世铭が避暑山荘で乾隆帝の狩に随行した際、34首の詩を書き下ろした。
「狮子园は皇帝の生まれた場所で、いつも8月23日の先帝崩御の日に数日滞在して先帝を偲ぶ」と書いたところから「避暑山荘生まれ」としたものであります。
管世铭のこの言葉は信用できるのか?
人物位は高くないが、軍機処づとめであることやとある元老との関係が深かったところから、宮中の秘密を知りうる立場にあったようで、「獅子園が皇帝降誕地」と書くのには相当の自信があったのでは?と推測でき、あながち嘘ではないのでは?と言われている。
また、康煕帝も早くから毎年皇子たちや大臣たちを連れ避暑山荘の木兰围场で狩りを行っており、第四皇子だった雍正帝も一家でここにいたと考えられるからとあり得る話だとのこと。
嘉慶帝は父が「避暑山荘生まれ」だと思っていたが、父皇の意に沿った
嘉慶元年(1796年)八月、乾隆帝84歳の誕生日、太上皇という身分で初めて避暑山荘で誕生日を過ごした。
この時、嘉慶帝が「康熙辛卯年(1711年)に避暑山荘が建てられ、父乾隆帝もちょうど(ここで)生まれた年。ここは福が集まった土地だ」という意味の、誕生日を祝う詩を書いた。
そして同じような内容の詩を次の年、嘉慶二年にも書いている。
だが、10数年後に嘉慶帝は考えを変えた。
嘉慶十二年(1807年)に乾隆帝の実録編纂作業が終わり、内容を確認すると、なんと父・乾隆帝が「私の出生地は雍和宮だ」と書いてある。
嘉慶帝は実録の編纂大臣たちに調査させると、雍和宮で誕生したと自身が書いた詩が見つかった。
父親の意に背くことなどはあり得ないため、「仕方なく」父の意に沿って「雍和宮で生まれた」とした。
嘉慶帝の死後も勃発した乾隆帝出生地の謎
嘉慶二十五年(1820年)7月25日、嘉慶帝は避暑山荘で急逝した。
嘉慶帝の遺勅にもまた、「父・乾隆帝は避暑山荘で誕生した。だから私がここで死ぬことも全然残念ではない。」(日本語がちょっと変ですねごめんなさい…)と書いてあった。
嘉慶帝の息子、道光帝は遺勅を改変し世に公開したが、修正前の遺勅が既に出回っているため、却って世の民に疑念を抱かせる事態となった。
この項の記事タイトルは「欲盖弥彰的道光帝」。
まさしく成語の意味する通りの結果になったそうだ。
故事成語で、悪いことを隠そうとすればするほど、真相が明らかになってしまうこと。
乾隆帝は結局どこで生まれたのか?
実は、現在でも学者で説が分かれているそうです。
生まれたのが「雍和宮」ではなく「避暑山荘」だったら、生母が避暑山荘の宮女で養母が钮祜禄(niuhuru)氏じゃないかもしれない説があながち嘘でもない感じがしますね。