追記:2024.02.10「徳妃伝」が動きそうというニュース。ネット民は「歴史の魔改造」を心配
24.02.10 久しぶりにこの記事が多く検索されているので調べてみると、こんな記事が出ていたんですね↓
最近は当局の規制も多く、史実と異なるものなども規制対象となっているためなかなか動き出せなかったのかもしれません。
そして赵丽颖主演という噂もあるとのことで、動き出したら10年に一度でる名作となる可能性はあります。
しかしながら懸念もあるということで、2021年の記事ですがざっと見てみましょう。
网友担心《德妃传》魔改历史
ネット民たちは「徳妃伝」が歴史に沿っておらず「魔改造」しているのではないかと心配しているというのです。
それは原作者である流潋紫が微信で隆科多(ロンコド)を“少年权臣,意气风发,却是一生相思不得,毒酒断肠”(若くして権力を持ち、エネルギーのある男。しかし(徳妃と)一生添い遂げられず断腸の思いで毒酒をあおって死ぬ)と表現しています。
「宮廷の諍い女」(甄嬛传)では徳妃とロンコドは幼い頃から竹馬の友(青梅竹马的关系)であり、最終的に毒酒でロンコドを殺していますが、史実では何の私的関係のない二人です。「徳妃伝」もこのように歴史に沿わない魔改造をするのではと言われています。
家庭がめちゃくちゃな男、隆科多(ロンコド)だけど大丈夫ですか??
ロンコドは妻の父の妾を奪って「その女性をください」と言って自分の妻にした男です。
どこぞの成人用マンガの主人公みたいじゃないですか、この人。
この妾は李四儿といいます。
元々隆科多の正妻は父親の妾である彼女をイビリ倒していました。
しかし隆科多の最愛の妾という地位を手に入れてから李四儿は正妻に反撃を開始します。
とにかく積年の恨みを晴らすかの如く、やり返したと。
そして噂によると、ついには人豚にして殺してしまったとも言われているのだそうです。(人豚にされるとわかって首をつって自殺したとも…)
たかが妾が正妻をこんな目に遭わせるのはこの時代では絶対にあり得ないことです。
隆科多は妻たちを管理できないバカ男だとレッテルを貼られても仕方がないでしょう。
こんなバカ男をさも幼い頃からの純愛の関係で、最終的に徳妃を守るために断腸の思いで毒をあおったなんてちゃんちゃらおかしいと言われればそれまでですね。
↓ここからは元々の記事
きっとまたドラマ化されますね。
「宮廷の諍い女」にも出てきた徳妃(乌雅氏)についておさらいしてみましょう。
徳妃について
乌雅(wu ya)氏。康熙帝妃。
1660〜1723年。満洲族正黄旗。
护军参领威武之女。(護軍参領威武の娘)
雍正帝生母。性格は慎み深く慎重で穏やかで、あでやかで目を惹く。
康熙帝より6歳年下で4人の皇子と2人の皇女を産んだ。
康熙17年、第四皇子である雍正帝を育てたことで徳嬪に、康熙20年に徳妃となった。
包衣出身で賢く、贅沢を好まない
元々は内務府の包衣(皇家の奴隷)出身。
宮廷に入り、康熙帝に(多分召使いとして)仕え、まもなく臨幸があった。
康熙17年から27年の間に、3人の皇子と3人の皇女を産んだが、残念ながらそのうち1人の皇子と2人の皇女は夭折してしまった。
しかし比べるものでもないが、立て続けに皇子を5人産むも全て亡くしてしまった荣妃 马佳氏(栄妃 馬佳氏)よりは、ずいぶん幸せだった。
徳妃 乌雅氏の最高位は「妃」
彼女より遅く入宮した佟佳(tong jia)氏は、すぐに貴妃に封された。
その当時、佟佳氏の位は誰よりも高かったが、彼女の病気が悪化して、康熙帝はさらに皇后にしようとした。
徳妃は佟佳氏が漢人であったが、自分とは比べものにならないくらい有利な立場にあることをわかっていた。
※漢人が皇后になれない理由
清朝は官僚に対する満漢併用制などの懐柔策を取ったが、後宮において漢人が皇后になることはあり得なかった。後継ができることによる朝廷転覆を防ぐもの。
これは江戸幕府の御台所は京都の公家または天皇家から、ただし子供は産まさないといった策と根っこは同じような策。
一つは佟佳氏のおばが康熙帝の母親であったこと。
二つ目は父親・佟图赖が清王朝のために殉職したことで、佟佳氏の2人の弟は高官になっていたこと。
おまけに康熙帝が母方の祖父の地位を上げるために、佟图赖に満州族の姓を与え、佟佳氏とし、漢軍鑲藍旗から満州鑲黄旗にしたこと。
満洲族といえども普通の家だった徳妃 乌雅氏からすると、多くを望めなかった、望まなかったものと思われる。
当時の後宮での高齢出産記録を更新
12皇女出産時27歳、最後に産んだ14皇子・胤禵出産時、徳妃はすでに29歳。
現在ではもはやアラサーは高齢出産とは言われなくなっているが、当時の後宮ではすでに高齢であり、25歳を過ぎると江戸幕府で言うところの「お褥下り(おしとねさがり)」をしなければならなかった。
例外中の例外ではあったが、徳妃は他の妃嬪に比べて寵愛を受けていたと言うことがわかる。
お茶汲み宮女から永和宮の主人へどんどん成り上がっていく中で、彼女自身は慎重かつ叡智を持って自分と子供達を守って来たと推察される。
なんかこうやって書くと「延禧攻略」ならぬ「永和攻略」ですねー。
実子が皇帝となり皇太后となるも悩み尽きず
徳妃の後宮生活は穏やかに平和に進んでいくものと思われたが、とうとうそれが崩される時が来る。
それが雍正帝即位につながる「九王奪嫡」である。
皇帝の位を巡って、九人の皇子たちが権力闘争を繰り広げたが、とりわけ徳妃が心を痛めたのは自身の2人の子供であった。
4皇子(雍正帝)が皇帝即位後、14皇子を幽閉したことだった。
もともとそのような性格なのかもしれないが、4皇子は長年にわたる権力闘争で、すっかり猜疑心の塊になってしまったのだ。
実の兄弟になぜこのような仕打ちをするのかと、ショックで床に伏せってついに起き上がれなくなった。
1723年、63歳で亡くなる。
「徳妃伝」の見所はどこになるのかを勝手に予想してみる
「宮廷の諍い女」で見たような、若い女性たちの宮廷闘争はそこそこに、後半の雍正帝の「九王奪嫡」あたりの流れが分厚く描かれるのではないかと予想してます。
康熙帝の遺詔「传位十四子」(14子に皇位を継がせよ)の十に一本足して于にして、「传位于四子」に書き換えたという話もあります。
康熙帝が十四皇子をとても可愛がっていたという話もあれば、のちの乾隆帝が気に入ったのでその親である四皇子を皇帝に指名したとも言われます。
母親である徳妃は、康熙帝の思いも子供達の性格も誰よりも理解しているので、彼女の目線から書かれた皇位継承争いが描かれ、これまでと違った解釈が見られる可能性もあります。
三部作を軽く振り返る
「宮廷の諍い女」の熹贵妃は妃嬪たちとの壮絶な争いの上、夫・雍正帝の自身と果郡王に対する仕打ちを恨みに恨んで、(実際は確か果郡王との子供だったかな?)実子の平和な一生のため、血の繋がっていない息子を立派な皇帝に育て上げる。
「如懿传」の乌拉那拉皇后は皇帝と幼馴染で永遠の絆を誓っていたが、皇后と皇帝となると自ずと関係も変化していき、絆が壊れ、名誉挽回できないまま孤独のまま結末を迎えてしまう。(余りにも衛嬿婉が陰湿で最後の方は見るのが嫌になりました。)
徳妃伝はどのような物語が描かれるのでしょうか。
原作は読んだことないのですが、もともと1作目の「甄嬛传」は時代が清朝ではないんですよね。
映像化にあたって雍正帝時代に当て嵌めたとか。
いずれにしてもとても楽しみですねー。
今回の参考図書
中国后妃全传
50以上の王朝の400人以上の夫人たちの概要がまとめられている。
復習がてら康熙帝時代がわかるドラマを紹介
康熙王朝
もはや古典とも言えそう。
陳道明(陈道明)が康熙帝を演じていますが、実は子役がやっている少年時代が秀逸。父が出家して母は亡くなり、祖母の孝荘文皇太后とその侍女・苏麻喇姑(スマラグ)のバックアップを受けながら皇帝として成長していく。最後の方はちょっといい加減でグタグタになるが、名作。
「歩歩驚心(步步惊心)」(邦題:宮廷女官 若曦)
刘诗诗(劉詩詩)演じる若曦が康熙時代にタイムスリップ。女官になって皇子たちに囲まれて生活し皆と平穏に楽しく暮らしたいという思い虚しく、歴史の「九王奪嫡」の運命が迫っていた。若曦と四皇子(吴奇隆)はじめ、夫婦や恋人、人間同士がとても切ない。涙活にぴったりのシーンがたっぷり。
「宫锁心玉」(邦題:宮 パレス〜時をかける宮女〜)
于正作品。こちらもタイムスリップもの。杨幂(ヤンミー)演じる洛晴川が康熙時代にタイムスリップ。
8皇子(何晟铭)と4皇子(冯绍峰・ウィリアム・フォン)の間で揺れ動きつつも、「九王奪嫡」で兄弟はめちゃくちゃになっていく。杨幂と冯绍峰がとてもお似合い。杨幂が美しい。フィクション交え、軽いノリで見られる。
この当時、于正は目の付け所は良くて、エンタメ感のある時代劇をたくさん作っていて、パクリで訴えられたこともあって割と眉唾系だったなあと思っていました。
よもや「延禧攻略」みたいな作品を作るようになるとは夢にも思わなかったな…。