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大吉原展。内容は素晴らしかったが問題点が…吉原遊廓の「光と影」

2024年3月25日、東京藝術大学美術館で開催する大吉原展 お大尽ナイトに行ってきました。
これはプレ公開+花魁道中と花魁の舞の再現+図録などのお土産がついているものです。

大吉原展は開催前にXで炎上騒動がありましたが無事に開催されるに至りました。

本展示のメインはやはり浮世絵。吉原遊郭の成り立ちから始まり、江戸初期・中期・後期が中心で明治の時代へ移りゆく吉原遊郭とそこで働く女性を捉えてきた浮世絵や絵画が国内外から集められ、里帰りの浮世絵も多く展示されています。

浮世絵はこれでもかというほど集まっていて本当に見応えがありました。時間も足りないくらいでした。

そして花魁道中再現と花魁の舞は全て大学関係者の方でパフォーマンスが行われ、撮影も可能でしたがSNSなどに載せないでねということでした。花魁の観音手のように簪で飾られた横兵庫に襠(しかけ)でゆったりと舞う踊りが舞妓さん・芸妓さんのそれとは違う優雅さが大変素敵でした。

個人的には不謹慎さは全く感じなかったものの、これが吉原遊郭のすべてかと言われると説明や展示が足りなかったのかも知れません。かれこれ吉原や遊郭関連の本や場所を独自で見続けて10年以上になりますが、今回何が問題だったか考えてみたいと思います。

「吉原」と名付けるには華やかな文化としての側面が多すぎた

吉原遊郭という言葉を聞いてどのようなものを想像しますか?

ある人は吉原からさまざまな文化が生まれていったと言い、またある人は貧しい女性が搾取された女の地獄と言います。

吉原に代表される日本の花街が持つ最大の特徴は、江戸時代の文化の屋台骨として、これを支えていたことである。
歌舞伎や声曲、花、俳諧、狂歌、茶の湯、ファッション、浮世絵、出版、祭礼、香、書、相撲などの様々な文化に影響を与えていた。
明治維新まで、大きな見世の楼主は俳諧や狂歌、声曲、のろま狂言などの文化の守護者であり、歌舞伎役者のパトロンでもあった。

“文化のゆりかご”だった江戸吉原:浮世絵や歌舞伎、狂歌を育んだ幕府公認遊郭

今回の展示では、大文字屋市兵衛又の名を加保茶元成(かぼちゃ もとなり)のような人物も絵と共に紹介されていましたし、「吉原史話」「新・吉原史話」を書いた歌舞伎俳優の市川小太夫氏の母は澤瀉楼(おもだかろう)楼主の娘で花街とは深いつながりがある人でした。

しかしこのような華やかな側面は吉原遊郭の一面でしかありませんでした。

映画「吉原炎上」は冒頭に日本堤の土手を人力車で吉原に向かうシーンで「男が通う極楽道 娘が売られる地獄道」とナレーションが入ります。つまり娘はいくら花魁として崇められたとしても、売られた身。人肉市場の商品であり、到底極楽にはなり得ない場所でもあります。

そして働いていた女性たちにスポットを当ててみると、太夫と呼ばれたごく一部の上級花魁が客を選り好みしていた江戸の初期と、娼妓と呼ばれ自由解放運動に向かっていく明治時代でもかなり違います

またどのランクの妓楼で働くかによっても全く違ったでしょう。悲惨な目に遭った女性は後世に何も残さないまま、ただ己の人生を哀れみながら命を落としたいう人がほとんどなのかも知れません。また身請けされて一般人として幸せになれた人も、敢えて当時のことを語ることもしなかったのではないでしょうか。「吉原炎上」の原作者で画家の斎藤真一氏の祖母は角海老楼の紫花魁でしたが、吉原にいた時のことを話そうとしなかったと言います。

こう考えると吉原とは「江戸文化に寄与した吉原」だけではありません。

では明治後期から大正にかけて、花魁ではなく娼妓と呼ばれた女性たちの話を少し紹介してみたいと思います。

最期の花魁らしい花魁「モナ・リザは歩み去れり 明治四十年台の吉原」近藤富枝

まずは三大妓楼の一つ、角海老楼のお職(No.1)の大巻花魁の話である。

「モナ・リザは歩みされり 明治四十年代の吉原」より 明治43年5月の吉原細見

この大巻花魁を知るには「モナ・リザは歩み去れり 明治四十年代の吉原」という本に書いてあります。

筆者は近藤富枝氏で幼少の頃に鷲神社の酉の市のついでに父に連れられ、吉原遊郭に何度も行き写真見世を何度もみたことがあるという実際に吉原遊郭をその目で見たという人でもあります。

本には角海老楼に勤めていた小島ふよ氏のインタビューを元に大巻花魁の話が載せられています。

それによると大巻花魁は5人もの人を使い、この5人が交代勤務で花魁の側について世話をしていました。ふよは「良いものばかり食べて綺麗な着物を着て羨ましい」と思ったものの、関東は関西と違って「廻し」の習慣があるため、お職の大巻でも何人も客を取る必要がったので、ふよは羨ましいと思った気持ちが少し陰ったと言っています。

しかし大巻は、家作(貸し家)を持っていて他の花魁とはどうやら待遇が違ったと言います。

借金がなくならないように働けど働けど借金がなくならないようにする悪徳楼主もいますが、大巻は貸し家まで持っているというのだから大見世のお職は違うと思わせます。

しかしこういう人ばかりでなく、吉原病院には常に吉原娼妓全体の10分の1が入院していたとあります。

病室は八畳乃至十畳ほどの室であつて、七八人より十二三人まで比一室に収容するのである。そして一つの夜具に二人づつ同して、見も知らぬ他の娼妓とも枕を列べる事がある。

で、其待遇はといへば、診察が一日に二回づつある外、食料は娼妓の自である(薬代診断料は楼主持)、それも主から貸してもらふので、物価騰貴の今日一日一人に付七八銭の予定であるさうな、であるから到底甘味ものや、栄養分のあるものを食す訳には行かない。

三度の飯は麦飯、昼は野菜か小魚、夜は香之物なぞで、監獄より甚しいのである

明治二十六年刊の「吉原遊廓の裏面」より

8〜10畳の部屋に7、8人〜12、3人押し込んで1つの布団に2人づつ知らない人と一緒に寝なければならない、食事は自分持ちだから高いものは食べられないという。それこそ高級妓楼の上級花魁には見舞金が来たり、楼主がお菓子や食べ物を変わるがわる持って行かせるなんてこともあったようですが、それこそほとんどが差し入れもなく放置されていたのが現状のようです。

また本書は大巻の話だけではなく、稲本楼の話、吉原病院の待遇や心中の話、文豪と遊女の話もあり、明治四十年代灯火が消える前の吉原遊郭が垣間見れ、まさに映画「吉原炎上」の世界観が文字になっています。「吉原炎上」が好きな方はぜひご覧になると良い一冊です。

本の紹介

絶版本のため古書となります

モナ・リザは歩み去れり 明治四十年台の吉原

虐げられた遊女の実録「光明に芽ぐむ日」森光子

大正時代の遊郭はさらに「花魁」に対する扱いが悪くなっています。

柳原白蓮に救われた森光子氏の著作「光明に芽ぐむ日」「春駒日記 吉原花魁の日々」を見ると、悪徳楼主に悲惨な生活を強いられ<復讐の第一歩として 人知れず日記を書こう>と耐え難き日常に筆を折りそうになりながらも必死に日常を書きつづけた当時の思いが文章に残されています。

これには「女性に「純潔」を求めた明治・大正。翻弄される花魁」という本に鋭い分析が書かれていました。

所属する店によって、花魁というランクの遊女でも、待遇がまったく違ったことがわかります。森のように1日に12人も客をとらされ、本を読む間もないほど大忙しという大正期の花魁もいたのですが、これは吉原内ですら花魁という階級の遊女への尊敬の念が部分的にせよ、薄れた証でしょう。さらに「純潔ではない女」は、性的にさくしゆされても仕方がないのだという感覚があってのあつかいだったと考えられます。

三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町 (幻冬舎新書) 

女性に「純潔」を求め始めた明治・大正。翻弄される花魁

理由の良し悪しは置いておいて、かつては女性とは口減らしや借金のかたにしかならないと言われていました。これは貴賤関係なく大名家では政略結婚の道具として意にそまない婚姻に身を投じなければならないこともありました。

そして遊女への尊敬の念も薄れたとありますが、徐々に手練手管を使って落としていく高嶺の花から手っ取り早く性欲を満たす存在に成り下がっていったのかもしれません。

本の紹介

光明に芽ぐむ日は周旋屋に連れられて吉原遊郭に足を踏み入れた日から逃亡するまで。春駒日記は足抜けしてから書いた話。

光明に芽ぐむ日 吉原花魁日記

春駒日記 吉原花魁の日々

"花魁道中"一つとっても多様的な価値観が

お大尽ナイトは「花魁道中」の再現もメニューに入っていましたが、これについても言及しておきたいと思います。

我々がみたことのある写真はほとんどが1914年(大正3年)の「東京大正博覧会」で花魁道中です。

この花魁道中は大文字楼・稲本楼・角海老楼の3大妓楼が参加し、絵葉書で見る限りたくさんの観客のなかを練り歩いています。

昔にSNSで話題になった美人花魁「稲本楼 小紫」の正面・横顔・バックショットの合計3枚写真絵葉書も今回展示してあります。

この写真を見てみましょう。

花魁道中を見る人は何を思ってみたのでしょうか。綺麗だな、美しいなと思った人もいると思います。

しかし彼女たちは娼妓です。公娼であり廓の中で関係者と客人を相手に日々を暮らしている中、見世物にされたと考えると非常に残酷です。成人式で着物を着たり、卒業式で袴を履いているのとは違います。

借金のために管理売春の下、身体を売っている女性であって、観音様の後光のように広がった簪だらけの頭と重たくて派手な着物で転んでも仕方ない高い下駄を履く苦行を見世物にされたとも言えます。

それを証拠に角海老楼の白縫は風邪で寝込んでいたにも関わらず花魁道中に無理やり参加させられ精神的苦痛を感じ、のちに娼妓廃業を申し出て受理されました。

角海老楼 白縫

江戸時代の花魁道中は花魁としての地位が高く、もったいつけてゆっくり歩いて客の男に会ってやるぞと言った趣がありましたが、明治大正にはすでにその文化は廃れています。古き良きニッポンとはこれなのだ!とお偉いさんが言ったかどうかは分かりませんが、花魁道中を復活させた背景には支配層の感覚的なズレがあったように感じます。

WikiPediaの「東京大正博覧会」のイベント内容を見たら、芸妓が大量にイベントや園遊会に出演したり、美女を集めてパビリオンを作ったりしていたようで、当時から批判はあったようです。

ではどういう名前なら炎上しなかったのだろうか

大変僭越ながらどのようなネーミングであれば炎上しなかったのかと思うと、やはり「大吉原」の名は広義すぎて誤解を呼ぶものであったと思います。

またプレ公開日の特別コースである「お大尽ナイト」という命名も嫌悪感を与える原因となったのかもしれません。

吉原細見に載っている多くの本名と娼妓名、吉原病院のデータ、客と相対死(心中)データ、浄閑寺の過去帳に連なる大量の女性たち…やはりこれらも合わせて「吉原」と私は考えます。

しかしだからと言って、とある漫画作品のようにあたかも史実であるかのようにフィクションを織り交ぜた「悲惨」「悲劇」の押し売りもご勘弁いただきたいです。

外野である私たちが吉原全てが被害者だと決めつけるのも非常に失礼極まりない話だと思います。

美術館は美術品を展示するものです。展示内容を見ても浮世絵が大多数を占め、芸術家や世間に与えた文化的な影響の面を伝えていると感じました。補足するものとして遊女の1日などのデータなどが詳しくスライドやビデオ、吉原細見も一部展示してありましたが、明治終わり〜大正あたりのものは全体的に少なかったように思います。

花魁と文化、浮世絵から見る吉原遊郭、吉原遊郭と文化…「吉原」だけではなくもう少しフォローする言葉があれば良かったのかも知れません。

図録もたっぷり3.5センチほどの厚みがあります。資料的価値も高いので購入必至です。

大吉原展について

大吉原展
東京藝術大学美術館
2024年3月26日(火)~5月19日(日)※会期中、展示替えがあります。
前期:3月26日(火)~4月21日(日)、後期:4月23日(火)~5月19日(日)

開館時間 午前10時~午後5時(入館は閉館の30分前まで)

  • この記事を書いた人

Satsuki Nosaka(乃坂皐月)

幼少期からバレエを習い、中学生の時に文化庁の日中国交20周年記念の中国公演に参加。大学受験とともにバレエをやめ20キロ太る。 宝塚歌劇はまんべんなく観劇。個人レッスンと中国時代劇でゆるく中国語学習中。先日念願のミニドラマ翻訳を行う。 本業はWeb関連会社の代表。 学生時代からの目標である満員電車に乗らないで生活することを叶え、Web業界でのサラリーマン生活の後、起業。

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