「延禧攻略」の嫻妃と「如懿伝」の乌拉那拉氏。
いずれも同じ乾隆帝の2番目の皇后、
娴妃のちの乌拉那拉(ウラナラ)氏がモデルです。
髪を切って皇帝に反発し、最終的に乾隆帝と同じところに埋葬すらされなかった
悲惨な運命を辿ったと言われています。
※補足:皇后は正妻なので皇帝と一緒の陵墓に入ります。しかし妃嬪は同葬は許されず、妃園寝で少し離れたところに埋葬されます。
ドラマが面白かったので改めて本を読み返していますが、
(わたしが知らなかった)新事実もありましたのでまとめたいと思います。
乌拉那拉(ウラナラ)じゃない
百度の情報を参考にすると、
乌拉那拉(ウラナラ)氏というのは「清史稿」における誤記が有力とのこと。
最近は「輝発那拉」(ホイファナラ)氏が正しいとのこと。
参考リンク:皇后辉发那拉氏(乾隆帝第二任皇后)
しかし本記事では乌拉那拉(ウラナラ)氏で進めます。
ウラナラ氏の生い立ち
一等承恩公、佐領納尓布の娘。
乾隆14年に皇貴妃、翌年に皇后に。
しかし江南巡幸中に乾隆帝の怒りを買い、
皇后なのに皇貴妃待遇で葬られました。
どのような待遇差をつけられたのかと言えば、
棺の材質と葬式の格式が皇后未満の待遇であったことです。
棺は皇后であれば楠なのに並の妃嬪と同じ、
杉の木だったそうです。
棺の位置も、妃园寝にありました。
皇后としてはあり得ない純惠皇贵妃と対の位置に納められています。
▼裕陵妃园寝(乾隆帝の妃嬪が眠る)
香妃传奇,探密清东陵裕陵妃园寝より引用
では通常であればどうだったのでしょうか。
皇后の身分であれば皇帝とともに裕陵の地宮に葬られるのが通常であり、
妃园寝には葬られません。
乾隆帝の裕陵の地宮に共に葬られたのは、
孝贤纯皇后、孝仪纯皇后,慧贤皇贵妃、哲悯皇贵妃、淑嘉皇贵妃。
皇后の身分で死ぬのもだめ、一緒に葬られるのもお断り。
死んでも許さんという乾隆帝の意志がはっきりと反映されています。
追記棺の素材で言えば、杉の木なので「嬪」と同待遇。いかに強い怒りを与えたかわかりやすいですね。
ここで私がとても好きな中国の歴史番組、
CCTVの「百家讲论」(百家講論)も参考にしたいと思います。
「百家讲坛」乾隆帝爱恨交加的三个女人の内容
「百家讲坛」とは、中国国営放送CCTVの番組で
歴史家が講義形式で歴史をひもとく、本当に面白い番組です。
字幕があるので大変助かっています。
日本で言えばNHKスペシャルぽいのですが、
乾隆帝の3皇后を追った回を見てみました。
タイトルは《百家讲坛》清十二帝后宫疑案 6 乾隆帝爱恨交加的三个女人
乾隆帝を巡って愛憎入り混じる3人の女性たちです。
この中では孝贤皇后(富察氏)は尊敬、
乌拉那拉皇后は死んでも恨まれ、
孝义皇后は後宮で皇帝の寵愛を勝ち得た人として説明されています。
孝义皇后は「延禧攻略」の主人公、瓔珞、のちの令妃であります。
孝贤皇后(富察氏)が尊敬された理由
画像引用fa-arrow-circle-right百度百科 孝贤纯皇后
家柄の良いお嬢様であるにも関わらず節約家であり、
慎ましい生活を送っていたことが皇帝に尊敬されたといわれています。
平素の生活では、皇后でありながら高級な玉や宝石の髪飾りに興味がなく、
いわゆる绒花(rong2hua4)ビロードなどで作った花を髪につけていたそうです。
▼こういう花です。秦嵐演ずる富察皇后がよく髪に挿していましたね。
また非常に勤勉で努力家。
乾隆帝の母である皇太后にも皇帝にもよく尽くしたとされています。
このような人柄は、
「延禧攻略」の秦嵐演ずる富察容音のキャラ設定に十分その片鱗が見られます。
しかし「如懿伝」の富察皇后は慎ましいですが、頼りない。
あまり賢くもなさそうに見えました。
また皇太后にも叱られていたので、実像とは少々イメージと異なるように思えます。
乌拉那拉(ウラナラ)皇后はいつ怒りを買ったのか
乾隆30年、第四次南巡で杭州に遊びに出掛けた際に事件は発生しました。
皇太后も後宮の妃嬪たちも引き連れて、
本来なら皆で賑やかに楽しく過ごそうという目的での南巡。
この時、実際には具体的なことは何かに残されていないようですが、
乾隆帝自らが「她疯了(彼女は気が触れた)」と言ったといわれています。
13年後の乾隆43年、乾隆帝自らがこの真相について
「髪を切って礼節を欠いた」と言及し、事実が明るみになったそうです。
髪を切って抗議がいけないのか?
髪を切るというのは満州族の古い風習です。
老人や夫、年齢の上の人が亡くなった際に首飾りを取って耳横の頭髪を切るというものでした。
これは切った髪を自分の代わりとして殉葬する(死の道連れにする)ためと言われています。
宮中では皇帝や皇太后が亡くなった時のみ行われていました。
したがって、死んでもないのに髪を切るということは、皇帝や皇太后に対して死ねと言っているのと同等だ。
非常に不届きものであるとして、激しい皇帝の怒りを買ったようです。
ウラナラ氏が髪を切ってまで抗議した原因とは?
原因はいくつか推定されていますが、結局は乾隆帝の女性関係です。
画像引用fa-arrow-circle-right百度百科 孝仪纯皇后
具体的には以下の2つの理由と言われています。
- 乾隆帝が江南美女と遊びすぎて頭にきた
- 魏佳氏(「延禧攻略」の瓔珞)の皇貴妃昇進を阻止したかった
乾隆帝は生涯で何度も南巡していますが、
江南美女が好きだったからだとも言われているくらいです。
ウラナラ氏が亡くなった4ヶ月後に入宮した明貴人陳氏は
乾隆30年の南巡の際に選ばれた女性で、彼女の入宮を阻止したかったという話もあります。
魏佳氏は飛ぶ鳥落とす勢いで寵愛を受けている妃。
いくら立場が最高位の皇后とは言え、ヒステリーを起こしてもおかしくない状況。
しかし髪の毛を切って抗議したことは非常にまずかった。
先に京師(北京のこと)にかえされて、その後、皇后など全ての封号を取り上げられました。
これがなんとも徹底的で、取り上げられた封号たるや、皇后になるまでの間、妃から皇貴妃のものも全てです。
まるで庶人に落とされたかのうような待遇で、その後冷宮に入れられました。
もともと10名程の宮女が仕えていましたが、2名しか許されません。
乾隆帝はそれでも気が済まず、真の意味での廃后を進めました。
皇后は国母とされていますが、それも否定。徹底的に貶めました。
大臣たちは皇帝に意見するも、僻地に飛ばされるなどの処罰を受けました。
乾隆31年、乌拉那拉皇后は冷宮の中で孤独の中、世を去りました。
冒頭に触れた、皇帝の地宮に共に葬られることもなく、
諡<おくりな>も許されませんでした。
乾隆帝はなぜ激怒したのか?をその性格から考える
運と時代と才能が味方した最強の皇帝
乾隆帝は普通の人ではありません。
いわゆる最強の2代目であり世界の頂点でもあります。
天上天下唯我独尊。
怖いものもないし、賢い。
社会もお父さんとおじいちゃんのおかげで平和で、財政も豊富。
まさに皇帝の中の皇帝、皇帝を謳歌した人です。
乾隆帝自身が称した「十全老人」という言葉は自分が最強であることを自認していますよね。
おじいちゃんの康熙帝がバラマキ政策で満漢の官僚を上手に懐柔し、
金銭的にもうヤバイって時はパパの雍正帝が財布をきっちり締めて、
時代と運と才能の全て持ち合わせたのが乾隆帝なのです。
参考康熙帝のおじいちゃまから溺愛され、そのおかげで父・雍正帝は九王奪嫡の争いに勝てたという噂も…。
最も愛した皇后が「あまりにもできすぎた」
また乾隆帝が最も「尊敬」し敬愛の念をもって生涯接した富察皇后。
富察皇后は女性として、優しく、賢く、慎み深い。
かたやウラナラ氏は外見は柔和で弱い女性に見えるものの、
内面は非常に強情で強い北方女性。
この性格が原因で、常日頃から乾隆帝をイラつかせ
何かあれば一触即発であったとも言われています。
富察皇后という理想の女性を失ってもなお
面影を追って、現実を受け入れられずにいたように思えます。
まさに帝王らしい人生を生きた乾隆帝。
のちの話ですが、
令妃も乾隆帝の寵愛を受けていながら
生きている間は皇后にはなれませんでした。
これはまた別の記事にまとめたいと思います。
本日の参考書籍皇城秘史 乾隆和他的妃子们
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