光緒帝・珍妃が度々慈禧太后の怒りを買って、妃嬪であるにも関わらず宮女と同じレベルの罰を2回も与えられています。
実際、珍妃はどのような最期をむかえたのでしょうか?
浅田次郎氏の「珍妃の井戸」の小説の題材とされるように、関係者の証言や宦官の回顧録を見ても、意見が割れています。
また珍妃の人柄についても、皇帝をたぶらかす悪い女と言うものもあれば、慈禧太后に似た才気あふれる女性だったと言うものもあります。
先般北京で買った本の中に、珍妃の幽閉場所について新情報と思しき情報がありました。
“图说故宫” 中华书局 王镜轮 著
写真中心の故宮解説本です。
珍妃の幽閉場所について
景祺閣の小院とするもの
北京・故宮博物院の珍妃井の看板は以下のように書いてあります。
珍妃井
清・光緒26年(1900年)8カ国連合軍が紫禁城に攻め入った際、慈禧太后と光緒帝は慌てて西(西安)に逃亡。
逃亡前に慈禧太后は景祺閣の小院に幽閉していた珍妃を頤和軒へ召し出し、宦官・崔玉貴などに直ちに貞順門内の井戸に投げ入れるよう命令し、溺死させた。
この説明文によると、幽閉されていた場所は「景祺閣の小院」とあります。
その他の場所では…
また浅田次郎氏やネットで書かれているものは概ね、
「北三所の冷宮」「西二長街の百子門内の小院」などの記載が見受けられます。
具体的に多くは語られていませんでしたが、「北三所」で最期の日々を過ごした可能性は高い、かつ景祺閣の小院=北三宮の可能性もあるのではないかと考えられます。
最期の幽閉場所 北三所とは?
実は北三所は現在の故宮ではもう存在しない建物で、今故宮に観覧に行ってもどこにもありません。観光の時に傍らにもつ観覧地図などからは「北三所」は見当たらないのです。
しかし今回取り上げた「图说故宫」ではなんと、北三宮の場所がどこにあったかが書かれていました…私にとってはめちゃくちゃビッグニュース!
早速一部を引用してみましょう。
慈禧幽禁珍妃景祺阁东院
宁寿宫之北是颐和轩,颐和轩北面有一个景祺阁。景祺阁北面,有一间并不引人注目的小屋。
这里就是珍妃最后的幽禁之所.........
日訳
慈禧太后が珍妃を幽閉したのは景祺閣の東院。
寧寿宮の北に頤和軒があり、頤和軒の北側に景祺閣がある。
景祺閣の北側には人の注目を引かない目立たない小屋があり、そこが珍妃が最後に幽閉されたところだ。
なんと写真付きで掲載されていました。
故宮に行った時に景祺閣周りを覗いてみましたが、見つけられませんでした。
他に幽閉された場所「北二所」
中国のニュースサイト「毎日頭条」では、
売官事件の際に幽閉された場所は「北二所」である
という記事も見つけました。↓
每日头条
揭秘光绪皇帝之珍妃被囚之地!
(光緒帝の珍妃が有名された秘密の場所を暴く!)
この記事によると…
揭秘光绪皇帝之珍妃被囚之地!
https://kknews.cc/zh-sg/history/yyz4pk.html
景祺閣の北側の黄色い丸囲みが北二所なのだそうです。
揭秘光绪皇帝之珍妃被囚之地!
https://kknews.cc/zh-sg/history/yyz4pk.html
珍妃の井戸の右手入り口は通常開かない(未開放地区)のですが、この入り口を入って右手が景祺閣、左手が北二所。
北二所はわずかに東西の配殿が残されているのみ。
揭秘光绪皇帝之珍妃被囚之地!
https://kknews.cc/zh-sg/history/yyz4pk.html
リンク先で写真がたくさん載っているのですが、修繕されていないため本当に寂しい雰囲気。
每日头条
揭秘光绪皇帝之珍妃被囚之地!
(光緒帝の珍妃が有名された秘密の場所を暴く!)
当時はこうではなかったと思いますが、一人の妃が若くして自由を奪われ、命まで奪われた惨劇の場所であるせいか、ドラマ以上に冷宮の雰囲気が感じられます。
珍妃の井戸と懐遠堂
これが「珍妃井」のアップです。
よく「こんな細いところに身体を捩じ込んだな」「珍妃はものすごくスリムだったのでは?」とおっしゃる方がいますが、この上に置かれている石は井戸の入り口ではありません。
珍妃の事件があってから井戸を塞いだと言うことなので、元々は外周の四角い部分が井戸の口であったと考えるべきです。
元々こういう井戸だったのでは?
映画<大太监李莲英>では宦官が珍妃を狭い井戸の入り口に無理やり捩じ込む様子が描かれていますが、上記のような井戸の入り口が四角で広いと考えると、抵抗するまでもなく宦官二人いれば簡単に投げ入れられるスペースがあったと考えられます。
映画<大太监李莲英>慈禧太后が李蓮英に命じて、珍妃を担いで運び井戸に投げ込まれるシーン(57:46くらい)です。
この映画の監督は映画「西太后」の李翰祥(リー・ハンシャン)。老けメイクで刘晓庆(リュウ・シャオチン)が慈禧太后役で登場します。めっちゃ怖いです。
権力に逆らえず何もできなかった瑾妃。しかし「精衛通誠」に妹を思う気持ちが
そして井戸の向かって右側面には「懐遠堂」と言う小さなお堂が建てられています。
これは珍妃の姉である瑾妃が建立したお堂です。
妹を哀れに思い妹を祀るために、劉裕皇后と慈禧太后が亡くなってから建てさせました。
中はどうなっているかと言うと…
姉・瑾妃の直筆の「精衛通誠」の扁額と、“珍貴妃之神位”と書かれた位牌が祀られています。
意味がわからなかったので調べてみました。
精衛とは?
古代中国の伝説上の鳥。夏をつかさどる炎帝の娘が東海におぼれ死んで化した、くちばしが白く、足の赤い鳥。西山の石をくわえてきては東海に落として海を埋めようとしたという。
Weblioより
また「通誠」について。
孟子の「至誠天通」という言葉を参考にすると、「誠の心を尽くして行動すれば、いつかは必ず天に通じ認められる」という意味で誠の心はいつかわかってもらえる時が来るという言葉です。
悲しくも溺れ死んでしまった妹よ 誠の心はいつかわかってもらえる時が来る
こちらも胸が締め付けられるほどの妹への思いが感じられる四文字ですね。
これは慈禧太后と劉裕皇后が亡くなってからでないと無理だったね
妃嬪にも関わらず宮女と同じ扱いで葬られた妹を哀れに思い劉裕・慈禧の死後、遺体を妃寝園に移葬しました。
冷宮でどう最期を過ごしたのか?
慈禧太后に使えた荣儿という名の宮女の談話集「宮女談往録」には以下のように書かれています。(以下は当方による意訳です。)
荒廃して寒々しく、外に通じる門は鍵がかけられている。窓は風でパタパタ開いたりしまったりするような窓が一つ。
食事や洗顔は全て下僕が窓から彼女に渡す。下僕と話してはならないし、誰とも会話をしてはならない。食事は下僕と同じものでトイレは1日に2度。慈禧太后の太監が2人、監視している。
最も屈辱的なのは忌日、毎月1日と15日、老太監が慈禧太后に訴え出た時に慈禧太后の代わりに老太監が珍妃の数々の罪を一つ一つ、鼻先に指をやって目の前で数えるのをひざまずかせて聞かせた。
数え終わったら必ず珍妃は跪いたまま、頭を地面に擦り付けて礼を言わなければならなかった。
これは昼食の前に行われることもあり、こんな罰を受けた後で食欲なんか湧くわけもなく、顔は垢まみれで貴人が履く靴(※花盆鞋)ではなく(召使の宮女と同じ)ぺたんこの靴で、囚人の格好をしていた。
※満洲族の貴人が履く靴は花盆鞋という当時のハイヒールのような靴。
宫里的女人都要穿花盆鞋吗
http://k.sina.com.cn/article_6443006998_180087c16001004je5.html#/