清朝

光緒帝・珍妃と珍妃井について①

珍妃井
ankoromochi

※この記事は【まとめ】光緒帝珍妃と珍妃井についてを加筆・修正したものです。

 

90年半ば、私が中学生の時に初めて北京の故宮に行きました。

まだ自転車ラッシュにニーハオトイレの頃です。

ニーハオトイレとは
隣の人と用を足しながら「ニーハオ」と挨拶ができるからこの名前がつきました。
ちょっとしたついたてがあれば上等。

その時ガイドの人から珍妃の井戸に関するエピソードを聞いて、

何て可哀想な人なんだろうと哀れんだことを今も覚えています。

 

何度も杖刑(鞭で打たれる罰)に遭い、井戸に投げ入れられた清朝皇帝の妃

この人以外にいません。

 

悲劇の皇妃、珍妃は25年の短い人生をどのように送ったのでしょうか。

 

珍妃の略歴

 

恪顺皇贵妃(1876年—1900年),即珍妃,他他拉氏,礼部左侍郎长叙之女,满洲正红旗人,光绪帝妃嫔,也是最为受宠的妃子。
光绪十五年(1889年)与姐姐(瑾妃)被入选宫中,封为珍嫔,后因慈禧太后六旬万寿加恩得晋珍妃,光绪二十年因卖官鬻爵、忤太后,降为珍贵人;次年复升为珍妃。
光绪二十六年(1900年),因慈禧太后出逃不想带着珍妃而被投井杀害,享年二十四岁,被慈禧太后表面上追封为珍贵妃,草草下葬在别处,后来她姐姐瑾妃做了太妃,统领后宫,才把她葬回她原本就该葬的地方——崇陵妃园寝。

出典:百度百科

 

ざっと百度の珍妃のプロフィールから抜粋したものをまとめます。

珍妃の略歴

  • 他他拉氏。満州正紅旗人。礼部左侍郎長叙の娘。光緒帝の寵妃。
  • 光緒15年(1889年)
    姉の瑾妃と共に宮廷に入り「珍嬪」に封ぜられる。
  • 慈禧太后の万寿の折に「珍妃」に進む。
  • 光緒20年(1894年)
    売官を行ったため、「珍貴人」へ降格。
    清朝妃嬪として初めて“褫衣廷杖”の罰を受ける。
  • 光緒21年(1895年)
    珍妃に復位。
  • 光緒26年(1900年)
    八カ国連合軍北京侵攻の際、慈禧太后は珍妃を西安に連れて行かず、井戸に投げ込み殺害。享年24歳。
  • 1年後、表面上は珍貴妃に封じて、(井戸から引き上げて)宦官や宮女の墓地に埋葬をした。
  • 慈禧太后、劉裕太后が死去後、姉の瑾妃が太妃となり後宮の取締役として(様々な采配を自由にふるえるようになり)やっと珍妃を本来、埋葬すべき場所である崇陵妃园寝へ移葬

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なぜ珍妃はこれほど慈禧太后に疎まれたのか

珍妃は才覚溢れ活発で美しく、若かりし頃の慈禧太后に似ていたということで、

慈禧太后も可愛がっていたそうです。

 

しかし光緒帝が劉裕皇后に一切興味を示さなかったことや、

珍妃の自由奔放な振る舞いが原因で、売官事件あたりから両者の関係が亀裂し

西太后にとっては、珍妃の賢く、自由で活発なところが、

小賢しく、身勝手と思うようになり、次第に疎ましくなってきました。

 

度々起こった小さな事件が売官事件の引き金に

珍妃が慈禧太后の怒りを買ったのは「売官事件」が初めてではありません。

大奥のストーリーにありそうな話が野史や宮女・宦官の回想録に残されています。

劉裕皇后の嫉妬

全ての始まりは、劉裕皇后の不満ともいえます。

日々不満を慈禧太后に漏らしていた事でしょう。

 

珍妃付きの宮女 白大姐の談話で、

実際珍妃に対する劉裕皇后の嫉妬から出た出来事がありました。

 

ひとつ目は、隆裕太后が報復のために李連英と珍妃づきの宦官と結託し、

男性の靴を部屋の中放置した事があった。

この件では、白大姐(珍妃付きの宮女)がむち打ちの刑を食らった。

 

もう一つは、劇団に使わせていた衣服(光緒帝が送ったもの)について、

隆裕太后がひどく大げさに騒ぎ立て、珍妃を鞭で打たせたこともありました

 

引用我的两位姑母——珍妃、瑾妃 作者:唐海沂

 

「我的两位姑母」は珍妃・瑾妃の甥が書いたものです

唐海沂氏の父が、珍妃・瑾妃の兄弟と言うことになります。

ここで出てくる白大姐は珍妃付きの宮女で、

いわゆる「宮廷の諍い女」でいえば、甄嬛に仕える槿汐のような宮女と思われます。

 

売官事件で紫禁城を追い出された後、身寄りのない白大姐は、

唐海沂の祖母のところに身を寄せ、その時に口述した話を掲載しています。

 

身分違いの旗袍着用

慈禧太后付きの宦官、小徳張の談話です。

 

隆裕皇后は皇帝が珍妃ばかりに目を向けて、自分がないがしろにされていることが気に入らない

だから慈禧太后に、珍妃が悪い人間だと告げ口していた。

 

ある日珍妃は、光緒帝が所有する翡翠と真珠が縫い付けられている旗袍を着て

光緒帝と一緒に散歩していた。

この旗袍は恐らく皇后が着る格式のもので、妃が着ることができるものではなかった。

 

しかし、慈禧太后に見られている事を知らなかったので、着替えられなかった。


「わたしですらこれだけ多くの真珠を縫い付けた旗袍はもったいなくて着れない。

たかが妃のくせに。誰が(皇后に)封じた?

皇帝はたいそうおまえのことを気に入っているようだが」と慈禧太后は激怒。

 

光緒帝と珍妃はすぐに跪いて叩頭し謝罪したが、

慈禧太后はお付きの崔玉貴に命じて珍妃を竹竿で30回打つように命じたとあります。

 

参考我的祖父小徳張

 

宦官・小徳張の孫が書いた本です
「瀛台泣血記」徳齢著にもこの真珠の旗袍事件について書かれています。

 

これらの出来事でもわかるように、

皇帝が珍妃しか目に入っていない様子や、皇帝の寵愛をかさに着た、行き過ぎた行為が

次第に慈禧太后の怒りへとつながっていきます。

 

男装をしたり、写真機を持ち込んで撮ったり撮られたり、
そう行ったこともきっと気に入らなかったのだろうと思います。
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売官事件

珍妃は元々の性格が気前がよく、宦官たちにほうびをよく与えていました。

そんな珍妃に宦官たちは、「小主」(ご主人様)とちやほやおだてました。

 

まだ若い珍妃はとても気持ちが良くなってしまい、褒美を与えるのをやめられなくなり

どんどん金遣いが荒くなっていきました


次第に毎月の給金では足らなくなり、官位を売ってお金を稼ぐようになった、

これが売官事件の真相です。

 

清朝皇妃が初めて受けた重い刑罰“褫衣廷杖”

”根据清宫档案记载,证实珍妃在十月二十八日这天遭到了“褫衣廷杖”
出典:百度百科

清宮档案によると

光緒20年(1894年)10月28日、とうとう売官が発覚し、珍妃は「褫衣廷杖(tie yi yan zhang)」の罰を受けた。

褫衣廷杖とは?
衣服を脱がせて、お尻をそのまま竹で打つ刑。妃嬪が受けるはずもない極めてきつい刑罰。


皇妃がこのような目に遭うのは清朝で初めてのことで、

翁同龢(おうどうわ)が太后に、「少し刑罰を緩められては」と進言したが、太后は聞かなかった。

 

褫衣廷杖をわかりやすくイメージするなら

「後宮の諍い女」で華妃が「一丈紅」を下す場面がイメージしやすいと思います。

 

 

珍妃の容体


「褫衣廷杖」執行後の珍妃の容態について記録が残っています。

 

「けいれんして意識がない。口は固く閉じられガタガタ小刻みに震えている」

などと書かれています。


この記録からやはり「褫衣廷杖」を受けたのは真実であると言われています。

また珍妃は妊娠していたが、子供は流れ、以降妊娠できない体になったそうです。

 

更是转述隆裕的说法,珍妃遭到廷杖后掉了孩子并从此终身不孕,

《我所知道的末代皇后隆裕》那根正

これは、「私の知っている末代皇后隆裕」と言う本で隆裕皇后から伝え聞いた情報として書かれています。

那根正は叶赫那拉(エホナラ)氏で慈禧太后や隆裕皇后の家系の方です。

 

その罰は珍妃だけではなく、珍妃の周りの人間にも及びました。

 

周囲への影響

まず、姉の瑾妃も同じく杖刑に処され、ともに貴人に降格となりました。

十一月初二日、慈禧太后はすぐに珍妃の手下である高万枝を死刑にするように命じました。

珍妃に関わった宦官は数十人命を落とし、またお付きの白大姐も紫禁城から追放されました。

 

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戊戌の政変

光緒24年(1898年)、康有為ら近代化官僚らと近代化を進めていた光緒帝は、

保守派のリーダーである慈禧太后を頤和園に幽閉しようとクーデターを起こしました。

 

このクーデターの協力を袁世凱に求めたのですが、

彼は逆に保守派にクーデターの計画を保守派に密告しました。

 

結果、クーデターは失敗

光緒帝が逮捕され、幽閉されることになった事件です。

 

戊戌の政変が失敗し、光緒帝に加担していた珍妃も再び

「褫衣廷杖(tie yi yan zhang)」の杖刑を受け、北三所に幽閉されました。

 

[getpost id=”1509″ title=”珍妃の幽閉場所” target=”_blank”]

 

戊戌の政変後の珍妃の生活

「故宮通覧」によると、珍妃は明代の乳母たちが引退後に住んだ場所に幽閉されました。

敷地の正門にはしっかりと鍵がかけられ、内務府の十字の封条(立入禁止テープみたいなもの)が張られ、

外部の人との接触はほぼありませんでした。

 

部屋はその場所の北にある3部屋のうち一番西にある1間を使いました。

建物の門には外から鍵がかけられ、部屋の窓は一つしかまともに動きません。

その動く窓越しで、食事や洗顔などを身分の低い使用人から受け取り、

トイレは一日に一回しか許されませんでした。

 

食事は妃嬪時代に食べていたものとはほど遠く、

使用人と同じものを与えられました。

 

また人と話すことは許されませんでした。

 

慈禧太后の命令で、新年や毎月1日、15日、(宮中で珍妃以外に)よいことがあった日に、

慈禧太后に代わって宦官が夕飯前に珍妃を跪かせました

 

そして宦官はこれ見よがしに珍妃の鼻の前で

珍妃の犯した罪をひとつひとつ挙げて説教をしました。

珍妃は説教が終わったら叩頭して必ず感謝を言わなければならず、

大きな屈辱感を与えました。

 

そして、八カ国連合軍が北京に入城し、

慈禧太后が紫禁城を捨てて西安に逃亡する際に、珍妃を井戸に沈めました。

 

その話はまた続きの記事にてまとめます。

 

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